20101203

花園におけるメリーゴーランド的考察 - vol.1

人類が残してきた建築物をたどってゆくと、我々はそこに装飾の歴史を見ることになる。多くの場合それら装飾には意味があり、物語がある。現代のような情報技術が発達していないような時代においてはほとんど唯一といってよいほど、装飾はその社会において生きる人々の情報や知識を継承するための手段となっていた。装飾は建築物の立面においてのみ施されるのではなく、平面であったり開口部をふさぐ窓であったり、あるいは構造体から独立したアイコンとしての物体であったり、安定的に設置されるものとも限らず一時的に設置されすぐ撤去されるものでもあった。多くはその動的な変化にこそ伝達されるべき意味が含まれている。

我々が現在において使っているような数字や文字という抽象的な媒体が存在しなかった時代には、象形文字やヒエログリフのような図像を空間に刻み、あるいはもっと直接的に絵そのものを大きく描くことで物語全体を伝えることも行った。フランスのラスコー洞窟にある壁画には、狩猟の場面や動物を描いた壁画が残されている。ネイティブアメリカンのトーテムポールには、その一族代々の長の歴史が刻み込まれ、文字ではなく口述伝承により語り継がれている。イタリアのルネサンス期宗教絵画においては聖書に記された文字そのものではなく、物語の中のある場面を障壁画によって切り取って見せ、そのインパクトと共に我々に物語を伝える役割を担ってみせた。中国は敦煌の莫高窟においては、仏教の経典に関する内容が極彩色で描かれている。建築空間に意味を包含させた装飾を施すこととなったのは、おそらくは当時、空間が最も長持ちのする媒体(メディア)であったからに他ならないからであり、文字自体もまだあまり定かではなかったような時代においては、場面のイメージである絵としたほうが意味の伝達がしやすかったに違いあるまい。


装飾による情報の伝達といった方法だけではなく、建築自体が持つモニュメンタルな性質によって、ある人物――多くの場合は時の権力者――の権力誇示のための道具としても建築はその役割を担うこととなった。「天下布武」を掲げて安土城を建設した織田信長も、絶対王政を民衆に誇示するためにヴェルサイユ宮殿を建てた太陽王ルイ14世も、あるいは古代エジプトの王たちも、はたまたブルジュ・カリファを建てたアラブの金持ちも、みな考えることは同じというわけである。


建築自体による恣意的な情報操作、例えばファシストらによる建築や、ブルータリズム的な表現による印象操作なども、それによって我々の意志や判断力に対して影響を及ぼし印象を強化しよう意志がそこに介在するという意味において、これもまた先の主張と同じ議論の範疇であると言えよう。つまるところ、建築物を含めたすべての空間構成物が人間に対して刺激を与える装置であると見なす限り、たとえ作り手の恣意性の有無に因らずとも、我々は空間に囚われているのである。

刺激装置としての空間としてよく語られるのは「茶室」であろう。茶の湯の極意は三つあるといわれている。準備を整えて客を待つ「仕度の原則」、くつろげる空間を演出する「しつらえの原則」、ゲームのルールを共有する「仕掛けの原則」である。「仕度の原則」は空間を司る側が提供するプログラムであり、「しつらえの原則」は空間そのものが発揮しうる性能であり、「仕掛けの原則」は空間に参加するもの同士が暗黙的に共有する知識と言い換えても良いだろう。これらの原則は茶室に限らずとも、すべてのよりよき空間の創造において必要なことであると考えられるが、ともあれ、茶室に招く側も招かれる側も、いずれ劣らず高度な知性と教養を要求され、その「ゲーム」を共に達成した暁における相互の充足感、満足感、一体感こそが茶の湯の真骨頂であろう。


翻って、私は「神社」について語りたいと思う。「神社」の原型空間とは、日本列島に土着していた古代の民衆が形成した、「男女和合」に関するコミュニティとシステムを醸成し、促進するための、非常に緻密に計画された空間であると言うこと告発したい。

まず予備知識として頭に入れておかねばならないのは、日本における「神」の系譜は大きく二つに断絶されている。ひとつは天照大神や大国主命らをはじめとする古事記に登場する神々であり、人知を超越した力を発揮する神話の神々である。もうひとつは神武天皇(紀元前6世紀頃)以降の現代に続く天皇の系譜である。現代において天皇はその神格が否定されていることになっているが、それら天皇たちはその存在や年代、役割などがある程度歴史的な資料と共に裏付けられており、神話・伝説的な性格がきわめて薄く、また西洋的な宗教における超人としての「神格」は存在せず、生物学的に見ればごく普通の人間であるに違いない。ともあれ、系譜としてはこのように大別されるし、後者においては大陸から侵略者として渡ってきた朝鮮半島系の血筋であるという指摘もある。

ここで重要なことは、前者の神々はどこへ行ったのかということである。結論から言うと、これらの神々は出雲にまつられている。更にいえば、これらの神々は後の天皇家一族らを頂点とする集団によって放逐されたものと見られている。どういうことかというと、もともと日本列島で形成されていた豪族集団(前期神々)とその集落が、外部(後期神々)からの侵略によって住むところを失い、人を失い、血筋を失った。当時はまだ十分な科学的知識がなかったことから、戦のあとに発生した飢饉や疫病――これらは戦争そのものによって行われた略奪や簒奪、人的な大移動に原因がある――などといった災害の原因をその「怨念」と恐れたため、侵略者の集団は自らの手で殺戮した人々を「神」として祀ったものだといわれている。

自分の手で殺した人々を神として祀る――この不自然さを疑うかもしれない。確かに、優れた業績を残した人を神格化することで、後世に残された人々がその御利益にあやかろうという構図は歴史的にもよく見られる。例えば徳川家康の日光東照宮や、乃木希典の乃木神社、太平洋戦争をはじめとした戦争での戦死者らを祀る靖国神社がよく知られている。一方で「殺した人々を神と祀る」ことについて言えば、藤原猛の論を借りると、法隆寺が大化の改新で中臣鎌足らによって誅殺された蘇我氏一族を弔うために建てられた寺であるという説があり、また俗説的には、板東地方において独自の政権を樹立したことで朝廷に誅殺された平将門の首塚の話もある。話を敷衍すれば、針塚や鋏塚といったように、我々が「破壊」した道具に対してもその考え方は通底しているといえるだろう。

いわゆる町中でよく見かける一般的な「神社」で祀られている神々というのは、後期神々によって放逐された「前期神々」のことである。もう一度整理すると、大陸的な思考や文化をもって侵入してきた実像のはっきりする「後期神々」が簒奪した、日本に土着的に暮らして独自の文化的思考を持っていた実像のはっきりしない「前期神々」が、いわゆる神道における「神々」である。各神社の境内にはその神社の由来が掲げられていることが多いが、そこには国産みの物語に出てくる伊弉諾尊や伊弉冉尊という名前や、八岐大蛇退治で有名な素戔嗚尊や奇稲田姫だとか、およそ現在の日本語の体系とは毛色の違う発音の神々の名前が挙げられている。先に述べたように、民族としての断絶だけでなく、ここには言葉としての断絶、すなわち文化としての断絶があることを改めて認識することができる。民俗学者の柳田国男はこのような人々のことを「非常民」と呼んだ。これは先の「後期神々」によって追いやられた人々に対応し、都市ではなく山野に住んだり流浪の民として生きることで細々と命脈をつないだようである。

もともと人々の往来が激しい大陸とは異なり、日本列島はその孤立した地理、コミュニティ、民族という背景をもっており、そのなかでいかにして効率的で、なおかつ安全に人口を増やさねばならないかということがコミュニティ維持のための重要課題であったということは想像に難くない。近親による交配は遺伝的欠陥を持ちやすいということは経験的に分かっていたことだろう。民俗学者の赤松啓介が指摘するように、「お講」であるとか「おこもり」「夜這い」であるといった民俗的風習は、この課題に対して古代の人々が編み出したひとつの答えに違いないだろう。そして驚くべきことに、つい数十年前、つまりは第二次大戦の戦後あたりまで、このような風習は日本全国に残っていたと言うことである。年長者が年少者の性の手配――場合によっては直接相手――をするということは、実はそこはかとなく現代でも行われているといっても過言ではあるまい。しかしながら近代的な価値観の浸透や児童福祉法や風営法といった法整備によりこれらの風習は廃れてしまったが、もしかすると今もどこかの山奥の村々で密かに行われているのではないかと、つい想像の翼を広げてしまう。

このような風習は、運用をあやまるとムラの秩序を乱す原因になりかねないので、ルールによって厳格に規律が守られていた。実施する時期や年齢、実施に際しての手順など、それらは事細かに決められており、成熟して儀式となった。集団の若者はその手順をきちんと経た通過儀礼を果たすことで、ようやくムラの大人衆として認められた。オトナの役割は大きく三つとであると考えられ、農作業など食い扶持生産の分担、人的資源生産の分担(要するに性交渉と出産育児)、そしてそれらをつなぐシステムとしての民俗的儀式・習慣の維持運営である。重要なのは三点目であり、どのようなムラでも維持運営のための会議を行うために使われるオトナが集まる空間があり、そこは「聖域」として扱われ、若年者のみならず女性さえも厳しく立ち入りを禁じられた。沖縄に「御嶽」と呼ばれる場所があるが、これもその名残であろう。

「儀式」を厳格に実施するためには、それが絶対的なものであるという幻想を集団が共有しなければならない。そのために、「儀式」は何か絶対的な存在――およそ神様的なもの――からの授かり物であるという仮定が置かれた。儀式の聖性を担保するために、それを執行する場は「聖域」であるとされ、その意味的なつながりと管理上の都合により、オトナたちの「聖域」と地理的に関係の強い場所が選ばれた。

これらのシステム全体を統合した空間を設定するために、「絶対的な存在」としては土着の神々(前期神々)が選ばれ、儀式を実施するための場としてそれらの神々を祀る場としての「神社」が選ばれ、儀式を運用するための手続きとして「祭」が定められたのである。

現代において「祭」は太鼓をたたいたりお囃子を奏でたり飲み食いしたりといった具合だが、儀式へと通じる手続きの一つであるという仮定から見ると、そこにある道具や衣装、空間構成といったものがすべてその「儀式」を暗喩した「装飾」であるという解釈に繋がってゆく。つまり、法被などの装束は、およそ薄衣によりできて脱ぎ着がしやすく、身体のラインやペニスの存在が目立ちやすくできている。酒や食い物で腹を満たされたあとは、交合の相手探しのために男女入り乱れて踊り狂う。音曲や火炎により興奮は極度に高められ、意気投合した男女は鎮守の森の夜陰に紛れて交わるのである。


(続)