20101210

花園におけるメリーゴーランド的考察 - vol.2

私は情報空間としての「茶室」と同列にこの「神社空間」――社殿の他、周辺設備や装束、儀礼のようなソフトウェアや鎮守の森などといった地形も含む――を扱いたい。つまり、先に述べたような茶の湯における三原則、「仕度の原則」「しつらえの原則」「仕掛けの原則」は神社空間においてもぴたりと合致すると考えている。

空間の中にさまざまな含意や隠喩をもたせ、そこで行われる行為に対して客を迷わせることなく、静謐の裡に誘導することを目指している。茶庭でいえば、入り口の門扉から茶室までの誘導空間であり、これは亭主の趣味に依るところが大きいが、一見すると手入れのされていないような鬱蒼とした茂みを、身をかがめて足下を見ながらゆっくり歩くことで自然と茶室へと辿り着いたり、あるいは本来誘導されるべきではない方向へはそれとない表示方法――例えば関守石など――によって行く手を塞がれる。茶室やその周辺空間に配された装飾には一輪の花でさえ意味があり、例えば利休が秀吉を茶室に招くにあたって活けた一輪の朝顔と、そのために刈り取った他のすべての朝顔の話、「朝顔の茶会」の逸話が有名であるが、これは茶の湯におけるもてなしの心、つまり「一期一会」のための仕掛けの在り方について物語っている。もてなすべき客のために高度に整備された空間は、客に対して「感動」や「情動」という心理作用をもたらす。もてなされる客はもてなす亭主の気配りに対して敬意を払い、相互にこの言外のやりとりを愉しむ。そこに「主客一体」の空気がうまれ、そこでこの空間の意義が完成される。

今となってはまことしやかに包み隠され、無毒化、無菌化されてしまってはいるが、この茶室におけるロジックと同様の意味を持つ、男女和合のための空間装置としての機能が「神社空間」にもあると主張したい。そう考えるための手がかりとなるいくつかの論拠を以降に挙げてゆく。

「鎮守の森」という言葉があるが、神社という空間に接するとまず目に映るのは、参道から社殿一体の領域を覆うように鬱蒼と茂る木々の木立である。町中にある神社では、多くの場合は年季の入った数本の巨樹だけが残されている場合が多いが、郊外や田舎の平地にポツネンと残された鎮守の森は、遠くからでもそこに社殿が安置されていることが一目でわかる。神社空間は自然の奇景に重ねて設置されている――というよりも奇岩や奇景を神として祭祀している――ことが多いため、そういった理由からでも場所の特定は決して難しくはない。

中沢新一「アースダイバー」にあるように、水利の良いところや傾斜地の上がったところ、沖積層の先端部などにある場合も多い。農村部の神社空間は山の麓にひっそりと階段状の参道が設けられており、名もない小山を背景としながら、道なき道に転がる石を頼りにおそるおそる歩を進めなければ来た道も行く道も見失いかねないようなところにある神社も未だに多い。そのような地形ではわかりにくいが、一方で、海岸沿いの小高く隆起した地形に配された神社などでは非常にわかりやすいのが、「鎮守の森」は女性の「恥丘」さながらの様相を呈していると言うことである。小高いふくらみと、その上に茂る木々。その木々の裡に隠された参道への入り口。つまり、神社空間それ自体はその外郭からして母体の隠喩であると言えよう。

女性のみがもつ子供を産み・育てる器質は、それ自体が子孫繁栄の象徴として信仰的な祭祀対象であるだけでなく、それと同時に、その「ご神体」と「交信」することがそのまま現世的な「子孫繁栄」へと繋がる道に他ならなかった。その現世的な御利益の「根源」としての母体を崇拝し、敬い、その深奥との連結こそがこの「神」と繋がる唯一無二の根拠であった。その「神」は定期的に「乱れ(月経)」るため、時にはなだめたり、時にはご機嫌を伺うなどし、その具合を極めて慎重に見守り、見極めなければ、決して子孫繁栄へとは至ることができない。従って、「神」と「交信」して結果を残すためには、そのタイミングや具合に対して神経を払い、また、敬意を払わなければならないものだった。これは旧時代におけるフェミニズムの在り方であるといっても差し支えあるまい。

とかく旧時代は男尊女卑の世界と考えられがちであるが、決してそんなことはなかったのではないかと思う。もちろん科学的な根拠には乏しかったのだろうが、古代の男どもも女性なくして子供は産めぬと当然わかっていたわけで、如何にして効率的かつ安全に子供を増やし、集団を拡大していくかということを考えれば、男性が女性への態度や関係を工夫しようと考えるのは何ら不自然なことではない。むしろ問題の大きさが故に、現代よりももっと真摯な対応が為されていた可能性も否定できない。卑弥呼の例もそうだが、天照大命も女性の神であるとされ、前期神々の時代から後期神々の時代に至るまでは女性が集団の象徴として尊崇されていた。生産の象徴としての「神」、あるいはその「神との交信者」として、「神」と同じ身体を持つ女性が神格化され、祭祀や呪術、時には政治を司る役割を担っていたのである。現代においても、神の託宣をうける巫女はあくまで女性の役割であり、儀式を司る進行役として男性の神主が置かれているに過ぎない。

生産の象徴としての女性的身体が神格化され、信仰の基盤としておかれたために、その信仰の拠り所としての偶像が求められることとなった。そもそも本来的には物理的な身体性が神格化された「神」であったため、それに対して改めて身体性を与えるという方向には向かなかった。そこで「神」を隠喩するような象徴的な造型へと拠り所が求められたのではないか。生産と繁栄の象徴である母体を神域全体とみなしたうえで、その外郭空間としてこれを保護する「鎮守の森」という地形を設定したのは、この「隠喩」の地形的な応用に他なるまい。従って、母体の物理的な形態を隠喩した「鎮守の森」が「鎮め」「守って」いるのは、生命誕生と子孫繁栄を司る女性的身体性が神格化された「神」であり、また、「神」と同じ身体を持つ女性そのものなのである。

「鎮守の森」の入り口には、「神」へ至る道の入り口の目印として「鳥居」が立っている。鳥居の由来には諸説あるが、これまでの議論を踏まえ、鳥居を女性性の隠喩として捉えれば、これはすなわち参道の入り口であることから「陰唇」の象徴として見ることができよう。二本の柱と二本の梁、そして地面とで構成される四角い外形線は、参道すなわち産道への入り口にふさわしい形状ではないか。あるいは女性の股座であると見ても良いかもしれない。その鳥居の前に立ち、柱の間を抜けるとそこは参道である。その入り口をくぐり、参道を抜け、「神」へと触れようとする意志は、すなわち男女和合と出産、子孫繁栄への意志の表れであるとみなすことができる。

現代においてもまだ根強く残っている考え方のひとつに、身内に死者が出たあとの忌中の期間に鳥居をくぐるなと言うものがある。鳥居をくぐると言うことはすなわち子孫を増やそうという意志の表れであるが、前述した考え方はこれを禁忌するものである。なぜ禁忌する必要があったのかと考えてみよう。身内に死者が出たと言うことは、病気の蔓延や気候の変化などといった死へと向かわせる原因があるか、あるいは、死者が出たことで労働力や組織形態に変化がおこり、今で言えば多大なストレス要因になりやすい環境に身をさらす可能性が出たと言うことを示唆するものである。このような環境が妊娠した母体に対して良くないことはあきらかであり、現代でもこのような環境での妊娠は避けるべきであると考えても何ら不自然ではない。当時の人々はこのことを経験的に知っていたのだろうか、環境が安定するまでの期間を服喪の期間とし、その期間は事を荒立てたりすることせずに平穏に暮らすべきだというある種の「知恵」を、性交渉に向かう意志への抑止力として設定するためにこのような「禁忌」を用意したのではないか。

鳥居を抜けるとそこは「参道」である。「参道」はすなわち「産道」と音を同じくし、隠喩と言うより、もはや明喩である。音の同一性から、神社空間の女性性との相似を勘づく人も少なくない。参道の端々には「神」へ通じる道を照らす灯籠が置かれることが多いが、私はこれはかなり現代に近い時代、言うなれば「神社空間」に含意された意味がかなり廃れ、忘れられた頃の産物ではないかと考えている。後述することになるが、聖域において実施される「祭り」にはおそらく必ずといって良いほど「火」が用いられたはずであり、現代のように人工的な灯火のなかった時代にはその「火」だけで十分暗闇は照らし出されたはずである。少なくとも道しるべ程度にはなったであろう。ただ、その「祭り」の場に至るまでの空間を盛り上げるための演出としてかがり火が用いられ、その利用の利便性のために灯籠が開発されたとも考えられなくもない。ともあれ、神社空間における「灯籠」には未だ意味を見いだせていない。

大同小異、参道を抜けると社殿が姿を現す。神社の社殿は、もっとも基本的な構成としては前室としての拝殿と、後室としての本殿という平面になっている。尤も、社殿と言うよりも祠というようなよりコンパクトなものであれば、素朴な小屋が建っているか、あるいは奇岩や奇景といったものに注連縄がかかっているか、場合によっては小高く盛った土の上にそれらしく鎮座されているだけといったこともある。

ここで注目するのは、きちんと社殿がある場合についてである。拝殿と本殿とは、きれいに中央寄せで前後に並んでおり、拝殿の方がいくつかの儀式を執り行う都合上、本殿よりも一回り大きく作られている。拝殿の中央後方から本殿に繋がる廊下、多くの場合は数段の階段によって本殿と連結されている。この空間は人間が利用することを前提としない、つまり、「神」が行き来するためだけのものであるため、人間的な寸法を持ってはいない。まるで出窓のような大きさの本殿である場合もあるし、より簡素なものでは神棚のように拝殿の内部にせり出してしまっているものもある。これは前述した「祠」のようなものに含まれるとみなして良いだろう。ともあれ、「神」は前室を経由した先の空間に安置されている。この構成は、前述したような女性の膣から子宮にかけての身体的な構成を隠喩したものであり、また、参道から社殿へと至る神域全体の相似形でもある。つまり、神社空間は女性的身体への自己相似的な構成をもっており、高度に数学的な意匠であると言うこともできよう。

現代においては、きちんと整備された社殿を持つ、いわゆる「神社」で祀られている「ご神体」は、ほとんどの場合、くぐもった光を反射する丸い鏡である。一方で、粗末な掘っ立て小屋のような祠――今となってはごくたまにしか見られないが、それでもまだそれなりの数が残っていると思われる――で祀られているのは、不思議な形をした円柱状の石棒や、丸い岩であったりする。それらはひとつだけがぽつねんと安置されている事よりもむしろ複数個がごろりと、半ば無造作に置かれている。大きなものになると祠の中にはなく、祠の外の参道脇にあったり、そもそも屋根さえかかっておらず野晒しにされていたりする場合もある。多くの場合は自然木や自然石であるが、新しいものは人工的に造形されたものであることもある。よくよく見ると注連縄がかけられているものさえある。それらはすべて「男根」もしくは「女陰」を想像させる形をもっている。

(続)