20120210

「物語」と「論文」

ここのところ卒論修論の原稿をチェックする機会が多かったのだが、それらの面倒を見ている最中にふと気がつくことがあったので、備忘録がてらちょっと書いてみようと思う。テーマは、「物語」と「論文」の構造的な違いについて、である。

言うまでもなく「物語」と「論文」とは異なる性質のものであるが、これは単に内容の違いだけではなく、その構造自体に決定的な違いをもっており、その構造的な違いこそが「物語」と「論文」とを分ける根拠となっている。そして多くの学生がその構造的な違いに気がつかず、「論文」を書いているつもりで「物語」を書いてしまうという罠に陥っている。そこでこの文章では、この構造的違いについてまず明らかにした上で、陥りがちな罠を回避するための手立てを示してみたいと思う。

「物語」の代表として、よく知られている「桃太郎」の内容を題材に取ってみたいと思う。言うまでもなく「桃太郎」は、どんぶらこと揺られてきた桃から生まれた赤ん坊が、3匹の供を従えて鬼ヶ島に向かい、見事鬼を退治して帰還するという「物語」である。この物語において、文章は最初から最後までを貫通する一本の時間軸上で記述されるだけでなく、ひとつの出来事の後にさらなる出来事が連鎖的に繋がり、それらひとつひとつのドラマティックな内容が読者の手に汗を握らせ、先の読めないような展開に興奮したり感動を呼ぶのである(大げさ)。かなり端折っていえば、この離散的かつ直線的な連続性こそが「物語」の主たる構造といってよいだろう※1。

ではこの「桃太郎」を、「物語」としてではなく「論文」として記述しようとするとどうなるか考えてみたい。まず最初に、「この物語は、桃から生まれた少年が3匹の供を従え、鬼ヶ島に住む鬼を退治する物語である」と記述することからはじめなければならないだろう。なんだネタバレではないか、と思うかも知れないが、論文の発端はこのようにシンプルな記述でその全貌が明かされる必要がある。最後の最後まで読んでみなければ結論がわからないような論文は、これは「論文」ではなく、ハラハラドキドキの「物語」に他ならない。他にも、おじいさんとおばあさんが山や川に行くくだりについては、「おじいさんとおばあさんはそれぞれ家事を分担しており、具体的におじいさんは~おばあさんは~」と書くべきであろう。また、3匹の供を従えるくだりについては、これらを記述する前に「一人での鬼退治は心許ないので、桃太郎は旅を共にする仲間が(少なくとも3人は)必要だと考えた」とでもいうような一文を設ける必要があるだろう。犬、猿、雉が物語の展開上に一直線に順を追って登場するのではなく、「結果的に犬、猿、雉の3匹を従えることとなったのだが、その経緯は以下の通りである」とでもいうように、この先の展開を先に前倒して示してしまうのが「論文」の構造といってよいだろう。

以上より私の主張をまとめると、「物語」の構造は①その先の展開を意図的に隠す演出をおこない、②文章の流れの上に一次元的(リニア)に進行するものである。一方で、「論文」の構造はこれと対照的に、①先の展開を事前に要約して示し、②文章の流れの上に並列的(パラレル)にこれらを並べて進行させるものであるといえる。モノに喩えると、「物語」はナイフのように一直線であり、「論文」はフォークのようにある分岐から先別れするものだと言えるだろう。

このことに気がつかず、延々と一直線に「物語」を語る論文が多い。分岐点に至っても、それが初読の者にとって分岐点であることに気づかせられない書き方をしている。特に卒論ではじめて論文を書く学生ならば、このことに気がつかないまま書かれることが往々にしてあるものだ。これは論文とはどのようなものかという教育がなされないことに問題の原因があると思うのだが、その責任はそれを教える立場の我々にある。

ではこの問題を解決するためにどのような手立てが考えられるだろうか。言うまでもなく、ストーリーをダイアグラムとして表現することが第一の手立てとなるだろう。

例えば、桃太郎の内容(簡単のため一部省略)を、「物語」としてダイアグラムに表現したものは次の図の通りとなる。

(作図中)

ここでおじいさんとおばあさんの登場から鬼ヶ島から帰還するまでの話は一直線に繋がって表現される。桃太郎の物語の中には特に目立った伏線もないため、複雑な構造にはならない。複雑な構造ではないからこそ、幼少の子どもたちでも素直に楽しめる物語になっている。

では今度は、これを「論文」として表現する場合のダイアグラムを次の図に示す。

(作図中)

最初に物語の全貌を概要として示している。図中のアイコンが小さいのは、そのディテールや内容を必要最小限に削ってコンパクトにしたためである。これらは実際の本文中に詳細に述べればよい。次に背景となる部分だが、桃太郎の出自と鬼退治への動機を述べる必要がある。なぜ桃太郎は鬼ヶ島へ向かうことになったのか、その動機が述べられた後に、具体的にどうやって鬼退治をするのかという方法論が述べられねばならない。そこで先にも述べたように、単身の鬼征伐では心許ない、あるいは行きがかり上の必然として、3匹の供と連れ立つことになるのだが、先にこの事実を述べた後に、それぞれとの出会いについての詳細を述べることになる。つまり、3匹を供とした事実について述べる部分がフォークの付け根の部分となり、フォークの個々の先端はそれぞれの供との出会いに関する具体的な内容を述べる部分となる。このように、話が並列化する手前の分岐点では、読者が迷子にならないように分岐であることを明らかにし、個々の分岐について述べた後はそれらが再びひとつの話に合流するような記述も加えなければならない。桃太郎でいえば、「こうして桃太郎は3匹の供を連れ、鬼ヶ島に向けて船をこぎ出したのでした」とでもいうように。

最後に、桃太郎はみごと鬼を退治しておじいさんとおばあさんの元に帰還するわけだが、最後にまとめとしてきちんと論文全体の要旨を記述しなければならない。通常、背景部分についてはまとめでは言及しないので、具体的にどういう方法で目的を達したのか、そこで得られた考察は何であったかについて述べる。桃太郎でいえば、3匹の供と協力することで鬼を退治したということが述べられることだけでなく、金銀珊瑚といった宝を持ち帰ったことについても言及する。桃太郎の物語には、その後の桃太郎の活躍などについては触れられていないが、論文では本来、その後どのように研究が発展できるかについて述べる箇所がある。仮に桃太郎の物語を拡張するとして、桃太郎が持ち帰った金銀財宝で、鬼によって廃れた都の復旧財源とした、などとするのがよいのではないか。

(作図中)

さて、桃太郎を例にとって「物語」と「論文」との違いについて述べてみたが、「論文」にあって「物語」にないものは、シナリオの分岐点となる箇所で読者を路頭に迷わせないための「道しるべ」に他ならない。この先のシナリオがどのように分岐し、それらの分岐が再びどこでひとつに合流するのか、これを示すだけで読者の理解はかなり改善される。論文は難しいことを難しく書いたものではなくて、難しいことを誰もが理解できるように書き改められたものでなければならない。そのためには、話の展開を誰よりもよく知っている筆者自身が、その道しるべを読者に対してきちんと示してあげなければならないのである。

※1:もちろん重層的な「物語」も存在するが、ここでは簡単のため、ごくシンプルなおはなしを想定してもらいたい

*

ちなみに、論文の書き方についてのメモを研究論文をシステマティックに書く方法にまとめたので、そちらも合わせて参照してみて欲しい。