20101227

Archiduino Project - vol.14

建築系におけるArduino利用計画としての「Archiduino Project」。

12月26日に友人の設計事務所で定期的に行っている勉強会に参加させてもらい、そこで最近取り組んでいるArchiduinoに関する内容について話させてもらった。これはそのとき使ったスライドにちょっとだけ手を加えたものである。

趣旨としてはこうだ。
・ArduinoみたいなラピッドプロトタイピングツールをつかっていろいろなものをTinkeringする人(Make:r)が増えてきている。
・我々も「Archiduino」を通じて建築分野において有用と考えられるICT設備を開発してみた。
・OSHW(オープンソースハードウェア)という流れがエレクトロニクスや工芸、手芸、など各分野に浸透してきている。
・建築もOSHWの流れに位置づけていきたい。あるいは、セルフビルドの系譜に接続していく方法を模索したい。
・1000万人が年収200万円そこらという時代を考えれば、建築家は金持ち相手に特化していくか、住宅取得という方法そのものを変えていくしかないのではないか。

質疑の要旨としては以下である(「→」が回答)。細かなものは省いた。
・情報や通信プロトコルの仕様については?
→APIを公開・共有し、みんなが使えるようにして、情報の出入り口で課金するなどすればいい。委員会あるいはコンソーシアム的にやる方式はもう古いのではないか?
・情報を握ったものが権力者、みたいな風潮の中で、これはそういうものになっていってしまうのか?
→情報を握るだけではダメだ。情報から意味やある種の答えを抽出できるような人やシステムが力を持つことにはなると思う。
・これまでのセルフビルドがうまくいかなかったところにICTを持ち込んでうまくいく勝算はあるか?
→自分の身近な問題としてこういう問題がある以上、勝算があるかどうかは抜きにしてやるべき意義はあると思う。「Make:」という行為の延長がどこまで届くか、可能性は未知数。

20101210

花園におけるメリーゴーランド的考察 - vol.2

私は情報空間としての「茶室」と同列にこの「神社空間」――社殿の他、周辺設備や装束、儀礼のようなソフトウェアや鎮守の森などといった地形も含む――を扱いたい。つまり、先に述べたような茶の湯における三原則、「仕度の原則」「しつらえの原則」「仕掛けの原則」は神社空間においてもぴたりと合致すると考えている。

空間の中にさまざまな含意や隠喩をもたせ、そこで行われる行為に対して客を迷わせることなく、静謐の裡に誘導することを目指している。茶庭でいえば、入り口の門扉から茶室までの誘導空間であり、これは亭主の趣味に依るところが大きいが、一見すると手入れのされていないような鬱蒼とした茂みを、身をかがめて足下を見ながらゆっくり歩くことで自然と茶室へと辿り着いたり、あるいは本来誘導されるべきではない方向へはそれとない表示方法――例えば関守石など――によって行く手を塞がれる。茶室やその周辺空間に配された装飾には一輪の花でさえ意味があり、例えば利休が秀吉を茶室に招くにあたって活けた一輪の朝顔と、そのために刈り取った他のすべての朝顔の話、「朝顔の茶会」の逸話が有名であるが、これは茶の湯におけるもてなしの心、つまり「一期一会」のための仕掛けの在り方について物語っている。もてなすべき客のために高度に整備された空間は、客に対して「感動」や「情動」という心理作用をもたらす。もてなされる客はもてなす亭主の気配りに対して敬意を払い、相互にこの言外のやりとりを愉しむ。そこに「主客一体」の空気がうまれ、そこでこの空間の意義が完成される。

今となってはまことしやかに包み隠され、無毒化、無菌化されてしまってはいるが、この茶室におけるロジックと同様の意味を持つ、男女和合のための空間装置としての機能が「神社空間」にもあると主張したい。そう考えるための手がかりとなるいくつかの論拠を以降に挙げてゆく。

「鎮守の森」という言葉があるが、神社という空間に接するとまず目に映るのは、参道から社殿一体の領域を覆うように鬱蒼と茂る木々の木立である。町中にある神社では、多くの場合は年季の入った数本の巨樹だけが残されている場合が多いが、郊外や田舎の平地にポツネンと残された鎮守の森は、遠くからでもそこに社殿が安置されていることが一目でわかる。神社空間は自然の奇景に重ねて設置されている――というよりも奇岩や奇景を神として祭祀している――ことが多いため、そういった理由からでも場所の特定は決して難しくはない。

中沢新一「アースダイバー」にあるように、水利の良いところや傾斜地の上がったところ、沖積層の先端部などにある場合も多い。農村部の神社空間は山の麓にひっそりと階段状の参道が設けられており、名もない小山を背景としながら、道なき道に転がる石を頼りにおそるおそる歩を進めなければ来た道も行く道も見失いかねないようなところにある神社も未だに多い。そのような地形ではわかりにくいが、一方で、海岸沿いの小高く隆起した地形に配された神社などでは非常にわかりやすいのが、「鎮守の森」は女性の「恥丘」さながらの様相を呈していると言うことである。小高いふくらみと、その上に茂る木々。その木々の裡に隠された参道への入り口。つまり、神社空間それ自体はその外郭からして母体の隠喩であると言えよう。

女性のみがもつ子供を産み・育てる器質は、それ自体が子孫繁栄の象徴として信仰的な祭祀対象であるだけでなく、それと同時に、その「ご神体」と「交信」することがそのまま現世的な「子孫繁栄」へと繋がる道に他ならなかった。その現世的な御利益の「根源」としての母体を崇拝し、敬い、その深奥との連結こそがこの「神」と繋がる唯一無二の根拠であった。その「神」は定期的に「乱れ(月経)」るため、時にはなだめたり、時にはご機嫌を伺うなどし、その具合を極めて慎重に見守り、見極めなければ、決して子孫繁栄へとは至ることができない。従って、「神」と「交信」して結果を残すためには、そのタイミングや具合に対して神経を払い、また、敬意を払わなければならないものだった。これは旧時代におけるフェミニズムの在り方であるといっても差し支えあるまい。

とかく旧時代は男尊女卑の世界と考えられがちであるが、決してそんなことはなかったのではないかと思う。もちろん科学的な根拠には乏しかったのだろうが、古代の男どもも女性なくして子供は産めぬと当然わかっていたわけで、如何にして効率的かつ安全に子供を増やし、集団を拡大していくかということを考えれば、男性が女性への態度や関係を工夫しようと考えるのは何ら不自然なことではない。むしろ問題の大きさが故に、現代よりももっと真摯な対応が為されていた可能性も否定できない。卑弥呼の例もそうだが、天照大命も女性の神であるとされ、前期神々の時代から後期神々の時代に至るまでは女性が集団の象徴として尊崇されていた。生産の象徴としての「神」、あるいはその「神との交信者」として、「神」と同じ身体を持つ女性が神格化され、祭祀や呪術、時には政治を司る役割を担っていたのである。現代においても、神の託宣をうける巫女はあくまで女性の役割であり、儀式を司る進行役として男性の神主が置かれているに過ぎない。

生産の象徴としての女性的身体が神格化され、信仰の基盤としておかれたために、その信仰の拠り所としての偶像が求められることとなった。そもそも本来的には物理的な身体性が神格化された「神」であったため、それに対して改めて身体性を与えるという方向には向かなかった。そこで「神」を隠喩するような象徴的な造型へと拠り所が求められたのではないか。生産と繁栄の象徴である母体を神域全体とみなしたうえで、その外郭空間としてこれを保護する「鎮守の森」という地形を設定したのは、この「隠喩」の地形的な応用に他なるまい。従って、母体の物理的な形態を隠喩した「鎮守の森」が「鎮め」「守って」いるのは、生命誕生と子孫繁栄を司る女性的身体性が神格化された「神」であり、また、「神」と同じ身体を持つ女性そのものなのである。

「鎮守の森」の入り口には、「神」へ至る道の入り口の目印として「鳥居」が立っている。鳥居の由来には諸説あるが、これまでの議論を踏まえ、鳥居を女性性の隠喩として捉えれば、これはすなわち参道の入り口であることから「陰唇」の象徴として見ることができよう。二本の柱と二本の梁、そして地面とで構成される四角い外形線は、参道すなわち産道への入り口にふさわしい形状ではないか。あるいは女性の股座であると見ても良いかもしれない。その鳥居の前に立ち、柱の間を抜けるとそこは参道である。その入り口をくぐり、参道を抜け、「神」へと触れようとする意志は、すなわち男女和合と出産、子孫繁栄への意志の表れであるとみなすことができる。

現代においてもまだ根強く残っている考え方のひとつに、身内に死者が出たあとの忌中の期間に鳥居をくぐるなと言うものがある。鳥居をくぐると言うことはすなわち子孫を増やそうという意志の表れであるが、前述した考え方はこれを禁忌するものである。なぜ禁忌する必要があったのかと考えてみよう。身内に死者が出たと言うことは、病気の蔓延や気候の変化などといった死へと向かわせる原因があるか、あるいは、死者が出たことで労働力や組織形態に変化がおこり、今で言えば多大なストレス要因になりやすい環境に身をさらす可能性が出たと言うことを示唆するものである。このような環境が妊娠した母体に対して良くないことはあきらかであり、現代でもこのような環境での妊娠は避けるべきであると考えても何ら不自然ではない。当時の人々はこのことを経験的に知っていたのだろうか、環境が安定するまでの期間を服喪の期間とし、その期間は事を荒立てたりすることせずに平穏に暮らすべきだというある種の「知恵」を、性交渉に向かう意志への抑止力として設定するためにこのような「禁忌」を用意したのではないか。

鳥居を抜けるとそこは「参道」である。「参道」はすなわち「産道」と音を同じくし、隠喩と言うより、もはや明喩である。音の同一性から、神社空間の女性性との相似を勘づく人も少なくない。参道の端々には「神」へ通じる道を照らす灯籠が置かれることが多いが、私はこれはかなり現代に近い時代、言うなれば「神社空間」に含意された意味がかなり廃れ、忘れられた頃の産物ではないかと考えている。後述することになるが、聖域において実施される「祭り」にはおそらく必ずといって良いほど「火」が用いられたはずであり、現代のように人工的な灯火のなかった時代にはその「火」だけで十分暗闇は照らし出されたはずである。少なくとも道しるべ程度にはなったであろう。ただ、その「祭り」の場に至るまでの空間を盛り上げるための演出としてかがり火が用いられ、その利用の利便性のために灯籠が開発されたとも考えられなくもない。ともあれ、神社空間における「灯籠」には未だ意味を見いだせていない。

大同小異、参道を抜けると社殿が姿を現す。神社の社殿は、もっとも基本的な構成としては前室としての拝殿と、後室としての本殿という平面になっている。尤も、社殿と言うよりも祠というようなよりコンパクトなものであれば、素朴な小屋が建っているか、あるいは奇岩や奇景といったものに注連縄がかかっているか、場合によっては小高く盛った土の上にそれらしく鎮座されているだけといったこともある。

ここで注目するのは、きちんと社殿がある場合についてである。拝殿と本殿とは、きれいに中央寄せで前後に並んでおり、拝殿の方がいくつかの儀式を執り行う都合上、本殿よりも一回り大きく作られている。拝殿の中央後方から本殿に繋がる廊下、多くの場合は数段の階段によって本殿と連結されている。この空間は人間が利用することを前提としない、つまり、「神」が行き来するためだけのものであるため、人間的な寸法を持ってはいない。まるで出窓のような大きさの本殿である場合もあるし、より簡素なものでは神棚のように拝殿の内部にせり出してしまっているものもある。これは前述した「祠」のようなものに含まれるとみなして良いだろう。ともあれ、「神」は前室を経由した先の空間に安置されている。この構成は、前述したような女性の膣から子宮にかけての身体的な構成を隠喩したものであり、また、参道から社殿へと至る神域全体の相似形でもある。つまり、神社空間は女性的身体への自己相似的な構成をもっており、高度に数学的な意匠であると言うこともできよう。

現代においては、きちんと整備された社殿を持つ、いわゆる「神社」で祀られている「ご神体」は、ほとんどの場合、くぐもった光を反射する丸い鏡である。一方で、粗末な掘っ立て小屋のような祠――今となってはごくたまにしか見られないが、それでもまだそれなりの数が残っていると思われる――で祀られているのは、不思議な形をした円柱状の石棒や、丸い岩であったりする。それらはひとつだけがぽつねんと安置されている事よりもむしろ複数個がごろりと、半ば無造作に置かれている。大きなものになると祠の中にはなく、祠の外の参道脇にあったり、そもそも屋根さえかかっておらず野晒しにされていたりする場合もある。多くの場合は自然木や自然石であるが、新しいものは人工的に造形されたものであることもある。よくよく見ると注連縄がかけられているものさえある。それらはすべて「男根」もしくは「女陰」を想像させる形をもっている。

(続)

20101203

花園におけるメリーゴーランド的考察 - vol.1

人類が残してきた建築物をたどってゆくと、我々はそこに装飾の歴史を見ることになる。多くの場合それら装飾には意味があり、物語がある。現代のような情報技術が発達していないような時代においてはほとんど唯一といってよいほど、装飾はその社会において生きる人々の情報や知識を継承するための手段となっていた。装飾は建築物の立面においてのみ施されるのではなく、平面であったり開口部をふさぐ窓であったり、あるいは構造体から独立したアイコンとしての物体であったり、安定的に設置されるものとも限らず一時的に設置されすぐ撤去されるものでもあった。多くはその動的な変化にこそ伝達されるべき意味が含まれている。

我々が現在において使っているような数字や文字という抽象的な媒体が存在しなかった時代には、象形文字やヒエログリフのような図像を空間に刻み、あるいはもっと直接的に絵そのものを大きく描くことで物語全体を伝えることも行った。フランスのラスコー洞窟にある壁画には、狩猟の場面や動物を描いた壁画が残されている。ネイティブアメリカンのトーテムポールには、その一族代々の長の歴史が刻み込まれ、文字ではなく口述伝承により語り継がれている。イタリアのルネサンス期宗教絵画においては聖書に記された文字そのものではなく、物語の中のある場面を障壁画によって切り取って見せ、そのインパクトと共に我々に物語を伝える役割を担ってみせた。中国は敦煌の莫高窟においては、仏教の経典に関する内容が極彩色で描かれている。建築空間に意味を包含させた装飾を施すこととなったのは、おそらくは当時、空間が最も長持ちのする媒体(メディア)であったからに他ならないからであり、文字自体もまだあまり定かではなかったような時代においては、場面のイメージである絵としたほうが意味の伝達がしやすかったに違いあるまい。


装飾による情報の伝達といった方法だけではなく、建築自体が持つモニュメンタルな性質によって、ある人物――多くの場合は時の権力者――の権力誇示のための道具としても建築はその役割を担うこととなった。「天下布武」を掲げて安土城を建設した織田信長も、絶対王政を民衆に誇示するためにヴェルサイユ宮殿を建てた太陽王ルイ14世も、あるいは古代エジプトの王たちも、はたまたブルジュ・カリファを建てたアラブの金持ちも、みな考えることは同じというわけである。


建築自体による恣意的な情報操作、例えばファシストらによる建築や、ブルータリズム的な表現による印象操作なども、それによって我々の意志や判断力に対して影響を及ぼし印象を強化しよう意志がそこに介在するという意味において、これもまた先の主張と同じ議論の範疇であると言えよう。つまるところ、建築物を含めたすべての空間構成物が人間に対して刺激を与える装置であると見なす限り、たとえ作り手の恣意性の有無に因らずとも、我々は空間に囚われているのである。

刺激装置としての空間としてよく語られるのは「茶室」であろう。茶の湯の極意は三つあるといわれている。準備を整えて客を待つ「仕度の原則」、くつろげる空間を演出する「しつらえの原則」、ゲームのルールを共有する「仕掛けの原則」である。「仕度の原則」は空間を司る側が提供するプログラムであり、「しつらえの原則」は空間そのものが発揮しうる性能であり、「仕掛けの原則」は空間に参加するもの同士が暗黙的に共有する知識と言い換えても良いだろう。これらの原則は茶室に限らずとも、すべてのよりよき空間の創造において必要なことであると考えられるが、ともあれ、茶室に招く側も招かれる側も、いずれ劣らず高度な知性と教養を要求され、その「ゲーム」を共に達成した暁における相互の充足感、満足感、一体感こそが茶の湯の真骨頂であろう。


翻って、私は「神社」について語りたいと思う。「神社」の原型空間とは、日本列島に土着していた古代の民衆が形成した、「男女和合」に関するコミュニティとシステムを醸成し、促進するための、非常に緻密に計画された空間であると言うこと告発したい。

まず予備知識として頭に入れておかねばならないのは、日本における「神」の系譜は大きく二つに断絶されている。ひとつは天照大神や大国主命らをはじめとする古事記に登場する神々であり、人知を超越した力を発揮する神話の神々である。もうひとつは神武天皇(紀元前6世紀頃)以降の現代に続く天皇の系譜である。現代において天皇はその神格が否定されていることになっているが、それら天皇たちはその存在や年代、役割などがある程度歴史的な資料と共に裏付けられており、神話・伝説的な性格がきわめて薄く、また西洋的な宗教における超人としての「神格」は存在せず、生物学的に見ればごく普通の人間であるに違いない。ともあれ、系譜としてはこのように大別されるし、後者においては大陸から侵略者として渡ってきた朝鮮半島系の血筋であるという指摘もある。

ここで重要なことは、前者の神々はどこへ行ったのかということである。結論から言うと、これらの神々は出雲にまつられている。更にいえば、これらの神々は後の天皇家一族らを頂点とする集団によって放逐されたものと見られている。どういうことかというと、もともと日本列島で形成されていた豪族集団(前期神々)とその集落が、外部(後期神々)からの侵略によって住むところを失い、人を失い、血筋を失った。当時はまだ十分な科学的知識がなかったことから、戦のあとに発生した飢饉や疫病――これらは戦争そのものによって行われた略奪や簒奪、人的な大移動に原因がある――などといった災害の原因をその「怨念」と恐れたため、侵略者の集団は自らの手で殺戮した人々を「神」として祀ったものだといわれている。

自分の手で殺した人々を神として祀る――この不自然さを疑うかもしれない。確かに、優れた業績を残した人を神格化することで、後世に残された人々がその御利益にあやかろうという構図は歴史的にもよく見られる。例えば徳川家康の日光東照宮や、乃木希典の乃木神社、太平洋戦争をはじめとした戦争での戦死者らを祀る靖国神社がよく知られている。一方で「殺した人々を神と祀る」ことについて言えば、藤原猛の論を借りると、法隆寺が大化の改新で中臣鎌足らによって誅殺された蘇我氏一族を弔うために建てられた寺であるという説があり、また俗説的には、板東地方において独自の政権を樹立したことで朝廷に誅殺された平将門の首塚の話もある。話を敷衍すれば、針塚や鋏塚といったように、我々が「破壊」した道具に対してもその考え方は通底しているといえるだろう。

いわゆる町中でよく見かける一般的な「神社」で祀られている神々というのは、後期神々によって放逐された「前期神々」のことである。もう一度整理すると、大陸的な思考や文化をもって侵入してきた実像のはっきりする「後期神々」が簒奪した、日本に土着的に暮らして独自の文化的思考を持っていた実像のはっきりしない「前期神々」が、いわゆる神道における「神々」である。各神社の境内にはその神社の由来が掲げられていることが多いが、そこには国産みの物語に出てくる伊弉諾尊や伊弉冉尊という名前や、八岐大蛇退治で有名な素戔嗚尊や奇稲田姫だとか、およそ現在の日本語の体系とは毛色の違う発音の神々の名前が挙げられている。先に述べたように、民族としての断絶だけでなく、ここには言葉としての断絶、すなわち文化としての断絶があることを改めて認識することができる。民俗学者の柳田国男はこのような人々のことを「非常民」と呼んだ。これは先の「後期神々」によって追いやられた人々に対応し、都市ではなく山野に住んだり流浪の民として生きることで細々と命脈をつないだようである。

もともと人々の往来が激しい大陸とは異なり、日本列島はその孤立した地理、コミュニティ、民族という背景をもっており、そのなかでいかにして効率的で、なおかつ安全に人口を増やさねばならないかということがコミュニティ維持のための重要課題であったということは想像に難くない。近親による交配は遺伝的欠陥を持ちやすいということは経験的に分かっていたことだろう。民俗学者の赤松啓介が指摘するように、「お講」であるとか「おこもり」「夜這い」であるといった民俗的風習は、この課題に対して古代の人々が編み出したひとつの答えに違いないだろう。そして驚くべきことに、つい数十年前、つまりは第二次大戦の戦後あたりまで、このような風習は日本全国に残っていたと言うことである。年長者が年少者の性の手配――場合によっては直接相手――をするということは、実はそこはかとなく現代でも行われているといっても過言ではあるまい。しかしながら近代的な価値観の浸透や児童福祉法や風営法といった法整備によりこれらの風習は廃れてしまったが、もしかすると今もどこかの山奥の村々で密かに行われているのではないかと、つい想像の翼を広げてしまう。

このような風習は、運用をあやまるとムラの秩序を乱す原因になりかねないので、ルールによって厳格に規律が守られていた。実施する時期や年齢、実施に際しての手順など、それらは事細かに決められており、成熟して儀式となった。集団の若者はその手順をきちんと経た通過儀礼を果たすことで、ようやくムラの大人衆として認められた。オトナの役割は大きく三つとであると考えられ、農作業など食い扶持生産の分担、人的資源生産の分担(要するに性交渉と出産育児)、そしてそれらをつなぐシステムとしての民俗的儀式・習慣の維持運営である。重要なのは三点目であり、どのようなムラでも維持運営のための会議を行うために使われるオトナが集まる空間があり、そこは「聖域」として扱われ、若年者のみならず女性さえも厳しく立ち入りを禁じられた。沖縄に「御嶽」と呼ばれる場所があるが、これもその名残であろう。

「儀式」を厳格に実施するためには、それが絶対的なものであるという幻想を集団が共有しなければならない。そのために、「儀式」は何か絶対的な存在――およそ神様的なもの――からの授かり物であるという仮定が置かれた。儀式の聖性を担保するために、それを執行する場は「聖域」であるとされ、その意味的なつながりと管理上の都合により、オトナたちの「聖域」と地理的に関係の強い場所が選ばれた。

これらのシステム全体を統合した空間を設定するために、「絶対的な存在」としては土着の神々(前期神々)が選ばれ、儀式を実施するための場としてそれらの神々を祀る場としての「神社」が選ばれ、儀式を運用するための手続きとして「祭」が定められたのである。

現代において「祭」は太鼓をたたいたりお囃子を奏でたり飲み食いしたりといった具合だが、儀式へと通じる手続きの一つであるという仮定から見ると、そこにある道具や衣装、空間構成といったものがすべてその「儀式」を暗喩した「装飾」であるという解釈に繋がってゆく。つまり、法被などの装束は、およそ薄衣によりできて脱ぎ着がしやすく、身体のラインやペニスの存在が目立ちやすくできている。酒や食い物で腹を満たされたあとは、交合の相手探しのために男女入り乱れて踊り狂う。音曲や火炎により興奮は極度に高められ、意気投合した男女は鎮守の森の夜陰に紛れて交わるのである。


(続)

20101202

Archiduino Project - vol.13

建築系におけるArduino利用計画としての「Archiduino Project」。

時が経つのは早いもので、終わってからもう2週間が経過しようとしているところだが、今回念願の初参加となった「Make: Tokyo Meeting 06」についてレポートしたいと思う。

1. Archiduino-BBについて

まさか本当に売れるとは思ってもいなかったが、ありがたいことに4名もの方にお買い上げいただいた(用意したのは強気の10パック)。本当にありがとうございました。おそらく部品的な不備はないかと思うが、もし不備などあったらTwitterにてご連絡いただきたい。ご連絡いただくよりも各自手配された方が早いとは思うがw

当日現地で配布していた、構成情報などを掲載したA5のペーパーはこちら(そもそも準備枚数が少なかったため1日目には配布終了)。印刷版は少々文字がかすれ気味でしたので、こちらの方が可読性が良いかも知れない。

ご利用の際の注意点としては、ペーパーの注意書きにも書いてあるが、ブートローダの書き込みやスケッチのアップロードを各個で対応していただく必要がある、というこの2点に尽きる。特にブートローダの書き込みには、専用のAVRライターを用意したり、Arduino duemilanoveの基板自体を改造するなどといったことが必要になるが、この点にはご諒解いただいているということ前提での頒布なので、是非ともノークレームでお願いしたい。必要な情報についてはこちら。私も実際この方法でブートローダを書き込んだりしているが、Arduino Unoから構成が変わってしまったため、そろそろライターを買おうかなとさえ思っているところだ。

スケッチのアップロードは、既存のArduinoに載っているATmega328pと換装して書き込んだりしているが、XBee経由でアップロードする方法もあるとかないとか。どこかであるという情報を見たけれど、実際に自分で試せていない。もしかしたら普通に出来ることなのかもしれない。

ちなみにArchiduino-BBは、市販の価格で部品のみ1から集めると850円で準備できる。もちろんXBeeピッチ変換基板やXBeeチップ、ACアダプタは別料金である。売値1000円のうちのあとの150円は、パッケージ代と寄付金ということでありがたく頂戴いたしました。

今回の頒布で思ったのは、コの字型をしたジャンプワイヤが単品でばら売りされていない(あるいは知らないだけかも?)ことがすごく不便だなと思ったこと。ケーブルのものは売っているのだけれど、コの字型のほうは見たことがない(何度も言うが、知らないだけかも)。

(追記)どうやらなくもないけれど1つ10円するというのはちょっとお高いので、1つ1円くらいでなんとかならないものだろうか?

2. 私たち自身の展示物について

当日配布していたパンフレットはこちら。今回、初参加におつきあいいただいた諸氏の協力により、なかなか良いものができたのではないかと思っている。各展示物ごとにページが区切られているので、もし何度かつづけて参加することができた暁には、これらをまとめて一冊の本にしてみたいなとさえ思っている(妄想が過ぎるかな?)。

今回は早稲田大学渡辺研究室の厚意により、パンフレットの印刷代を持ってもらうことができた。印刷屋を使うことは、事前にはある程度考えてはいたが、実際に使うとなると入稿に関するいくつかのルールがあったりしてちょっと手こずった。トンボだとか色指定だとかよくわからんが、こちらとしては送ったPDFをそのまま両面で印刷して欲しいだけなので、プロっぽい仕上がりはとりあえず二の次で、そういう超簡単サービスってのがあってもいいのではないかと思う。

以下に各展示の要点について記す。私が直接関わっていないものについては、当日の掲示パネルから引用した。

2.1 Archiduino

地震動や建物の揺れ、エネルギー消費量や温湿度といった環境データ、居住者の行動や状態・心理などを観測する技術である「建築性能モニタリング技術」が建築分野で注目されて久しい。特に、日本のゼネコンらは独自に、あるいは関連するITベンダーらと連携し、オフィス空間レベルではかなりのものを実装できる段階にある。

しかしながら、モニタリングに必要なハードウェアインフラはおよそ高価であるため、一般の住宅レベルなどより広範に利用されるためにはそのコストを圧縮する必要がある。その方法論としては、複数の目的にまたがって複合的に利用できるようにすることでメリットを多重化したり、必要十分な性能に絞ってそもそも安価にしてしまおうという考え方がある。また、ハードウェアを後付け的に利用できるよう、設置と管理方法に柔軟性を持たせることで、個人でも対応できるような容易さを持たせることも必要だろう。

ここではArduinoをベースとした、簡易にして必要十分なセンサーネットワークインフラの構築を実証的に行うだけでなく、建築分野にとって必要十分な性能を持つ専用Arduinoクローンである「Archiduino」の試作に取り組んだ結果を展示した。

今後はハードウェア的に不十分な箇所(ハードウェアの違いによる取得データの整合性、既存のArduino用シールドとの互換性など)について取り組むことを検討している。また、住空間に設置しても何らおかしくない外装(Outer Case)のデザインにも取り組んでゆく。

2.2 Slipper 2.0

住宅やオフィスなどの居住空間で居住者の位置や行動をセンシングする技術は、携帯電話やPHS、アクティブ型RFIDタグを使ったものを含め、すでにいくつか存在するが、いずれも機能やコストにおいて一長一短である。

ここでは「スリッパ」のかかと部分に設置されたRFIDリーダと、床下に埋設されたRFIDタグとを用いることで、居住者の歩行軌跡を検出するデバイスの開発に取り組んだその成果を展示した。床下敷設型RFIDタグについては、2010年現在ですでに3軒の実験住宅において実装されており、実際の生活をモニタリングしたデータを取得している最中である。

居住者の行動モニタリング技術としてこの方法が妥当なものであるとは決して思っておらず、さまざまな方法を試してみたいと考えている。また、デバイスによる身体拘束性の低減と小型化、低電力化についても重要な課題である。現段階ではWindowsCEとPDAによる構成だが、Arduinoによる構成へと移行してゆきたい。

研究的には、行動パターンの検出(生活習慣の検出)や生活場面の文脈理解(コンテクストアウェア)、他の住空間システムとの連携などを是非とも実現したい。

2.3 OpenCVとProcessingで居住者の可視化

(展示パネルより引用)Arduino は安価にセンシング可能なデータデバイスです。そのデータをPachubeに送信し続け、それらをためていきます。それらのデータをSketchUpという図面を描くソフト上のオブジェクトに反映させ、リアルな世界とバーチャルな世界を結ぶ試みをしております。ここでは、実際の家をセンシングしたデータから室温を取り出して、室温の推移を可視化しております。

定点観測した画像を並べた動画は見ていて面白いものです。しかしながら、通常用いるにはプライバシーという問題とどうやって表示するのかという問題があります。ここでは取得した写真をOpenCVで減色処理し、Processing.jsを用いてホームページ上でもそれらの動きを表現することができました。

2.4 Arduinoで音の可視化+Human Probe & Share

(展示パネルより引用)都市や、テーマパークのような自由に散策できる状況にいる時、多くの場合はパンフレットや地図を見て、自分の行動を決めていると思いますが、知らずのうちに自分の周りの環境から影響を受けているのです。周辺で大きな音・変わった音がした時や、人の話声がガヤガヤと聞こえて来た時など、音のする方が気になって「ちょっと行ってみよう」という様に周辺の環境が人間の行動や心理に影響を与えていることがあります。そこで、本提案ではこの「音」に着目し、それを直感的に分かるように「見える化」し、散策者に情報を提供します。


人にセンサを取り付けデータを取得するという「Human Probe」という概念に基づき、音センサとGPSを散策者に取り付け、その人が「どこにいて、どんな音環境にあるのか」をリアルタイムで取得し「見える化」して提供します。また、一人のデータだけではなく、同様の機材を持つ複数名のデータを同期することにより、自分のいない場所、離れた場所の音環境を知る事ができ、行動のキッカケや興味の喚起を促します。この提案によって散策行動の範囲拡大や滞在時間の増加を促し、都市やテーマパークにおける散策行動をより活性化させることが出来ます。

2.5 ARモデリングツール

(展示パネルより引用)これからは、3Dデータのデジタル入稿やカスタムメイドでのモノづくりが盛んになると思われます。そんな世の中のために、形を決める際に机や椅子の正確な寸法を知らなくても、自分自身の身長や部屋の大きさに対応した「なんとなくの大きさ」でモデリングする事ができるツールを作りました。現実の空間に重ねて、原寸でモデルを作る事を目的としています。2台のカメラによるステレオビジョンで奥行きの座標を取っています。

3. 出展者としての感想

前回まではあくまで自分たちが「お客」として参加していたわけだが、今回は初めて「店側」としての参加であった。いろいろ気合いが入っていた点と、入れそびれた点とがあり、それらについてレポートしてみたい。

まず、私たちは前日の夜にいくつかの展示品を運び込むということを行った。いわゆる「前乗り」である。他の出展者さんたちも多数いるに違いない、ちょっとは内覧会くらいな感じかなと思っていたが、ところが現地に着いてみると、意外と誰もいない。大規模な出展を行う企業ブースくらいだ。というわけでこちらとしては展示物の設置リハをし、駅前のマックで買ってきたハンバーガーを食べながら、無駄に時間を費やしたというわけだ。

もっとも、配布用のペーパーなどはかなり重量があったので、車による前日搬入は正解だったかもしれない。ブース内の整理整頓、作品や備品の管理のために、2~3個はダンボール箱があった方が良いかもしれないと思った。

用意したペーパーは500部。最初ということもあってどれくらい用意すればいいか全く数が予測できなかったので、残ってもイイヤという感覚でやや多めに準備した。実際に配布してみると、2日間まるまる「配りまくる」ことでちょうど配り終わる感じであった。今回の来場者数が8000人程度ということを考えると、500部は6%くらいということで、もし次回があれば来場者予測数の5%程度で良いかもしれない。

開催日当日、始まって1時間と経たずに思ったのは、お客さんほとんどみなさんちゃんと話を聞いてくれるということであり、その説明が想像以上に大変だということである。お客さんは1回聞けば良いところ、我々はお客さんの数だけ話をしなければならない。一緒に参加してくれた学生のみなさんも言っていたが、のどが痛くなるくらいは必至であろう。今回は生協食堂での展示なのでさほど大声でなくても説明できたが、混雑を極める体育館ではもっと酷いことになっていたかもしれない。

もちろん、この点についての反省点はいくつかある。ひとつは、展示物の解説用パネルを初日までに準備できなかったこと。とりあえずこれだけ読めば何やっているかが分かる的なものをどうして準備しなかったか悔やまれたが、2日目はこれを用意できたことで多少は楽になったような気がする。もうひとつは、説明しなければ理解できない展示であったということ。せっかく「Make:」という場なのだから、何か動くような物体としての展示やデモを中心にして、もっと直感的に理解できる展示内容に厳選すれば良かった。あるいは、全体をまとめた5分程度のムービーを流し続けるとか、そういう方法でも良かったかもしれない。まぁでもお客さんと対面でコミュニケーションを取るというのが良さでもあるので、あまり省略しすぎるのも良くはない。せめて自分たちの休憩や他の展示物を見る時間をとるための時間稼ぎであるとか、用途は限定した方が良いかもしれないな。むしろ、説明の最中にいくつか見せたい写真や図表があったので、パネルとは別で、これらを用意しておいた方が良いかもしれない。

せっかくの参加と言うこともあり、プレゼンテーション(30分)もやってみた。これについては事前の告知などほとんどしていなかったこともあって、観客は最初5人くらいしかつかなかった。始めてみれば通りがかりのお客さんがちらほら寄っていくという感じだった。ほかの出展者らのプレゼンテーションでは、事前にペーパーを配布するなどしてかなり告知をしていたところなどは人だかりもできていたようである。もっとも、それだけ人を呼ぶほどのコンテンツを用意することの方が先ではあるな。なお、当日のプレゼンテーション資料はこちらにアップロードしてある。


4. 来場者としての感想

今回はあまり細かく見る時間が取れなかったので、2点だけ。

4.1 mbed

ポストArduinoと噂される「mbed」についてだけ書いておく。「mbed」はArduinoと同様にマイクロコントローラの一種だが、ArduinoがATMEL社のATmega328などを使っているのに対し、mbedはNXPセミコンダクターズ社のLPC1768を使っている。6000円ほどするmbedボード上には、USB、Ethernet、シリアル通信が実装されている。特筆する点としては、IDEはウェブベースのものとして用意されており、ブラウザ上でコーディングを行ったり、ライブラリをインポートした、コードのコンパイルをしたりする。mbed上での実行にはダウンロードしたコンパイル済みファイルを外付けUSBドライブとして認識されているmbedに保存するだけだ。

Arduinoに比べてやや値段は張るが、Ethernetシールドも一緒に買ったと思えば安いのかもしれない。単体としての性能はArduinoに比べて高性能である。ただし、A/D変換能については変わらず8bitである(もしここが10か12、あるいは16bitであったら間違いなくmbedを使っていたかもしれない)。mbedを部品から組み立てることが可能かと言えば、できないこともないのだろうが、今のところやっている人を見たことがいない。部品点数はArduinoと大差なさそうではある(未検証)。

Arduinoがもつハード的な広がり(クローンやシールドの豊富さ)とユーザー層にはまだ至ってはいないが、その性能の高さと魅力的な使い勝手の良さがゆえ、黙っていても今後はユーザーを増やしてゆくだろう。特にArduinoで出遅れた人にとっては、mbedは渡りに船かもしれない。私も一つ買ってみようかと思う。

mbedとArduinoの棲み分けについていえば、Arduinoの魅力はあの「限られた性能のなかで以下にうまくやるか」的なところにもあったわけであり、また、私自身がやっているように、必要な機能だけをチョイスして、コントローラに必要な核となる部分を自分で安く作れてしまうところにもあったわけだ。つまり、とにかくいろいろつまって高機能な心臓部が欲しければmbedをベースとすれば良く、Arduinoは量産や小型化、ストイックなまでの限界プログラミング(?)への挑戦、などという棲み分けが出来るかもしれない。ともかく、mbedをいじってみたいという欲求が私の中にも芽生えたようだ。

4.2 パーソナル・アンド・デジタル・ファブリケーション(略してPDF?)

現時点では3Dプリンタやレーザーカッターなど、業務用に使われていたツールが低価格で販売されるようになり、一般のユーザーでもこれらを使った製作が可能になってきた。これらのツールを使ったデスクトップ・ファブリケーションと、前述したArduinoやmbedなどといったラピッドプロトタイピングツールと組み合わさることで、動いて・楽しく・本当に欲しい・自分だけのモノが、それなりの品質で作れるようになってきた。これらのツールを連携させるのは、もちろんPCをはじめとしたデジタル端末であり、これによって実現されるのは、パーソナル・アンド・デジタル・ファブリケーション(PDF)である。これは着実に地歩を固めているように見える。

さて、我らが建築分野はこの流れとどのように関わろうか?

建築におけるパーソナルファブリケーション、すなわち「セルフビルド」の系譜は、建築史的には1966年の「ドラム缶の家(川合健二)」をひとつのターニングポイントとして考えることができる。早稲田出身の身としてはもちろん石山先生のことを忘れるわけにはゆかないが、それらの歴史を前にすると今の私は無知に等しい。これについては鋭意書物を読みあさるつもりである。それにしても理科大の図書館は蔵書が貧弱すぎるなコレハ。

現時点で語れること、私の甘い希望的観測で言えば、この新しいクラフトマンシップ、つまり「パーソナル・アンド・デジタル・ファブリケーション(PDF)」を建築の世界に対しても接続してゆきたいということだ。多少こじつけになるのかもしれないが、これまでに研究してきたこと、これまでに関わってきたプロジェクトなどすべて、この話に繋げられるような気がする。例えばモニタリングの話で言えば、得た観測データが建築を作る上でのコンテクストになり得るということや、E邸で見たパネル工法とその製造過程、RFIDなどICTを使った生産と流通の管理・効率化、データベース利用による材料・部品の管理と発注、メディアアート的なツールを用いたスタディツール、空間の管理や可視化のためのCADソフト利用、生産力のクラウド化、などなどである。こういった新しいツール、新しい方法論があれば、50年前とは違った方法でセルフビルドを考えることが出来るかもしれない。そう期待したいところである。

しかしながら今直感的に思いつく問題が大きく2点ある。

1つは、建築にさほど興味のない人、普通であればハウスメーカーや地元の工務店に相談に行くような人たちが、どのようにPDF建築に取り組むというモチベーションに接続していくことができるかという問題である。

ひとつのモチベーションとして、PDF建築の方がコストダウンが見込める、ということがあるかもしれない。しかしそれは果たして本当であろうか?あるいは仮にコストダウンができたとして、そのコストダウンに対して「作り手の時間・労力的コスト」が釣り合うだろうか?がんばった割に対して安くならなかった、ということにはならないだろうか?

そもそも近年は庭付きの一戸建てを持つ「一国一城の主」的なビジョンが持てない時代である。そういう時代において、もし本当に安く・楽しく・便利で・快適で・美しい住空間が実現できればこれは成功するかもしれない。そのためにこちらが準備・整備すべきことは非常に多い。一昔前にはやった「LOHAS」だって、雑誌を読んでいるあいだはなんとなくロハスな気分になれたかもしれないが、実際にロハスな生活をしている人がどれだけ増えたというのだろうか?ファッションではなく、本当に建築の「用強美」が手に入る手段として存在しなければ、ただのブームに終わってしまう。また、用強美を得るために建築家並みの特殊技能が必要になるというのであれば、要するに「ハードルが高い」というのであれば、それもまた不可と言うことになるであろう。

つまり、もうひとつの問題点として、一般の人でも可能な「建築設計」という方法論を根本的に考え直す必要があって、それを考える側も受け取る社会も、その変化にどれくらい耐えられるのかと言うことが問題になるのではないかと思う。

PDF建築を可能にするのは、単に既存のCADやモデラー、見積・積算ツールの使い勝手を向上させたり、ハードルを下げたりすればいいという問題ではない。また、お金がないから仕方なくPDF建築を選択するしかないというネガティブな姿勢の受け皿になるようなものであってもならない。

いわゆるマイホーム幻想は、高度成長期に国家の政策としてぶち上げられたものであって、30年とか35年といった長期間をローンの弁済に充てさせることで多くの人々を勤労の「奴隷」にし、そこから抜けさせなくさせた上で、勤労すべきもの以上に生産させられた「価値」を「ウワマエ」としてピンハネされていたわけである。酷い言い方をすれば国家ぐるみの搾取システムであって、搾取される側もその幻想を共有しあうことでむしろ積極的に連帯を保っていたと見ることもできる。政治的な観点から見れば、このようなヒトとカネとモノとを動かす「エコシステム(生態系、転じて収益構造)」は非常に良くできていると言えなくもないが、もう当代においてこの仕組みはうまくは回らなくなっているように思う。

つまるところ、私たちは与えられた「人生」という時間をどこでどのように、何をして暮らすのかという問題に行き当たることになるのであって、日本という国家の中で生きていくために最低限必要なお金をどうやって手に入れ、また、自分が満足できる生き方のために必要なカネをどうやって稼ぎながら、私たち自身のエコシステムを構築することができるのかという問いにぶち当たらざるを得ないのである。前時代のエコシステムは、これから住居を求めようとする若年者層に仕事もカネも回ってこない現代においては、もはや機能不全であることはすでに述べた。だからこそ、これからPDF建築を考えていくというのであるならば、そういったヒトの生き方、カネの回し方といったこともひっくるめて、また、その中でどうやって家を造るのかということについて考えて、考え直していかなければならないと思うのである。建築を社会的に考えるということの根本は、つまるところそういうことに違いないだろう。